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 評価 と 生きがい

  Evaluation and worth living



   
人にとって、何らかの “評価” は “生きがい” に必要か同等のものなのだろう。
   ただ、どの“評価”を基準にするかで、人の“生きがい”は大きく変わるだろう。


『 評価の中の人生 』  

“評価” は、生まれた直後から 親の「かわいいねぇ〜」で始まり、やがて親戚や近所の知り合いからに変わり、次は学校での評価へと基準が置き換えられる。

小、中、高の期間の間に、学校での “評価” は 社会での “評価” に置き換えられる事も教え込まれる。 教え込まれたって、評価(成績)トップが居れば、必ずビリも居る。まるで、ビリには社会で生きていく資格が無いと教え込まれてきた。

無事に、ビリにもならず就職した者にも “評価” が付き纏う。
“評価” が高ければ報酬(給与)も高いから、その世界(会社)の評価を得るために、数十年、評価を得て守る毎日を過ごす事になる。
それに、うまく適応できた者には、まるでゲーム感覚、それだけに集中すれば生活水準や社会的な名誉(評価)さえ高まるシステムだから、それだけに没頭できる。





『 評価という恐怖 』
 

しかし、誰も深く考えていないが、正当な“評価” が得られない人生がある事や、誰にも“評価” されないシステムの毎日へと追いやられてしまう可能性がある事を見逃している。
見逃しているから、人は簡単に、他者を良い(Good)か悪い(Bad)のレッテルを貼りつけたがり、必ず成績ビリの者、“評価”に値しない者を生み出してしまう、このシステムの欠点を補う必要性さえ考えようとしない。

いや、分かっているのかも知れない。
学校教育とは、評価されない事の恐怖を植え付ける場所だから。 だから、生まれた時から親からも 正当に評価されず、学校や会社でも同様に評価されずに生きている人の事を “見て見ぬフリ” をしてしまうんだ。
だから、会社を辞めて、急に社会から“評価” が得られなくなった途端に狼狽えるのだろうし、事故や病気で会社という評価システムからリタイアせざるを得なくなった人を憐れむフリが出来るのだろう。



『 評価と生きがい 』  

そう思うと、急に、“評価” は 真の“生きがい” になり得るだろうか? と考えてしまう。

所詮、“評価”は、殆どが他人が作ったもの、人を簡単に選別する為に生まれたシステムだから、一人ひとりの個人の個性や秘めた才能を見極めて、公正・厳密に評価する事はできず、親身で適切な判断はできるものではない。いや、人が作ったシステムだからこそ、偏見や先入観による不公正で恣意的な運用による“評価”が大半を占めていると言ってもよいだろう。
 
では、果たして、自分自身の“生きがい”を他者が作った“評価”システムに依存して、それだけを人生の指標にして良いのだろうか。 いや、決して良い筈がない。

確かに、社会に浸透している SNS 等で “いいね” とか “フォロワー数” などの “評価” を生きがいにしている人や、評価の高さから所得を得て、生計を立てている人が数多く存在している時代だからこそ、他者や社会だけに依存しない、自分自身の“評価”基準を身に着ける努力が必要な時代になっているのだろう。

誰にとっても、貴重で短い人生だからこそ、偏見や不公正を内在する社会的な“評価”システムとは別に、自分自身の“評価”を見つける必要があり、そうして身に着けた“評価”こそが、様々な事情で社会的“評価”システムから外れて、理解されず疎外されている人々に手を差し伸べる時に欠かせない“生きがい”の提案に繋がるのだと思う。

或いは、“評価” システムの流れの中に身を置きつつ、流れからこぼれ落ちていく人達に対して、どういう想いや考えを抱き、行動へと繋げていったのかという事にこそ “評価” を与えられるべきだし、そうやって他者に対して“評価”の提案を行なえる事こそが、真の “生きがい” に繋がるのだろう、とも思っている。







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