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ルールを守ること ・・・それは最低限です

人は死ぬ・・誰も理解してはいるが

週末ならぬ、終末は近いのかも

加害者 ・ 被害者



ルールを守ること ・・・それは最低限です 大阪府  Ecclesia さん

いや、ルールを守ることは大切だとは思っている。
しかしここ最近
「政治家は口にしたことはまもらない」
「あいつは嘘つきだ」
となにかと人を非難する反面で
「俺はここまで決められたルールをきちんと守ってきているのに」
とか
「俺は約束事はきちんと守る誠実な人間だから」
以下略になるほどに多く自分は決め事を守っていることを主張する声を聞くようになった。
たまたま私の周りで多いだけなのか?
相談をしてくる人でも「これ法律的には大丈夫ですか?」
とか聞く人もいる(あいにく私は法律家ではないので法律相談は受けないがまぁ知っている範囲で答える)。

さて、このような人は非難されるべきだろうか?
いや、非難されることは何もないだろう。
遵法精神はとても大切なことである。

しかし彼らがいうほどにそれは賞賛されるべきことなのだろうか。
申し訳ないが私から見ればルールを守っている、法律を守っていることをことさら強調していることは滑稽にしか見えない。
むしろ「私はルールを守ることでしか世間に誇れない人間です」というプラカードを下げているようなものだ。
いつぞや書いたかもしれないがルールや法律なんてものは人間が社会で生きていくにあたりモラルハザードが起きないための最低限の線引きである。
これを守っているからといって何を誇るのか疑問でしかない。
暴論をいえば法律に違反していても周囲との調和を図り、社会生活において人に対して+の影響力を与える人の方がよほどまともだ。

前回書いた
「子供を助けたら悪戯と間違って逮捕されるかもしれないから放置しておこう」
という考えもその一つだろう。
確かに放置して見殺しにすれば「気がつかなかった」と言えば救助義務も免責だろう。
悪戯していると思って逮捕されるよりはよほどましだろう。
たとえそれが冤罪であろうと逮捕されたとういう噂はその人を必ず貶める。

話は少しだけそれるが実際は逮捕・起訴・有罪になって初めて人は犯罪者になる。
しかし逮捕されたら全ての人は犯罪者としてその人を見る。
法律を守っているから自分は正しいなどと思いたいならそういうマスコミに踊らされたような見方ではなくきちんとした社会のルールを覚えろと言いたいがここで書きたいことではないのでここまでにする。

さて、話を戻す
「逮捕覚悟で子供助ける」
「子供を見殺しにして社会人として潔白でいる」
極端な例ではあるが究極の選択だ。
「あほな例で話をするな」
と言われそうだが一事が万事である。
最初に書いたが法律もルールも人間関係が社会で円滑になるようにと存在する筈だ。
しかしルールを守ることが目的になってしまっては本当に本末転倒である。
神奈川県で心臓発作を助けている間に駐車禁止を取り締まった件につき県警は反則行為を撤回しなかった。
きっとこれを読んだ人のうち何割かは
「ならもうこれからはそういう人を見ても見殺しにしよう」
と思うだろう。

本来
「人の嫌がることはやらない」
「人を思いやる気持」
「社会の中での自分」
「より良い方向へ社会も自分も変えていこうという気持」
などなど、そういった基本的な人間として持っているべき心を持っていれば法律もルールも必要ないと考えている。

こんなことを言っていたら
「でもじいちゃんが死んだときに遺産分割でもめまくったよ、裁判所の調停で決着しからよかったけどもやっぱりルールがないと駄目じゃないですか!」
と言われた。
これも又間違いだ。
もめるようなことを心に誰もが思わなければやはり法律もルールも必要がないのであって「自分の立場しか考えない人」いたから法律が必要になってしまったのである。

私は最近仕事以外ではネットはコミュニケーションツールとしては使わないようにしている。
使ったとしても仕事であれば即直接会う。
昔から今も「ネット恋愛」なんてものがあるが
「彼氏がメルカノ作って浮気していたんです!」
とか悪いが心の中で笑わせて頂いている。
夫婦や恋人同士の束縛や決め事も同類だろう。
熱烈に恋愛しているときは
「もっと束縛して執着をして」
などお互いを縛り合うがそのうち息が詰まって破綻を迎える。

結局は法律もルールも束縛も全部同根なのである。
つまりもう一度書くと
「人の嫌がることはやらない」
「人を思いやる気持」
「社会の中での自分」
「より良い方向へ社会も自分も変えていこうという気持」
恋人同士であれば
「相手をずっと思いやる気持」
そういったものがあればルールも法律も必要がない。

どんどんと規制が増えるルールや法律。
もちろん支配するものに都合の良いように作られていく側面は否定しない(この話は別にしたい)。
しかし自分達がそれらを忘れて「法律の穴をついて」などとアホなことを考えていることが自分達の首をしめていることにそろそろ気づいても良いのではないだろうか。

あー
まぁ気づかないだろうね。
紀元前から法典があるってことは人間は何も進歩してないってことだし。
やれやれ・・・結局人類が進歩しているのは科学とかそんなもんだけということで根本は同じってことね。

あらためて人間の罪深さを知る。
これを知ってどうするかもまた人間なのであるが。


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人は死ぬ ・・ 誰も理解はしているが 大阪府  Ecclesia さん

タイトルの通りである。
人が不老不死ではないことはきっと子供でも知っている。
しかし「人が作ったものは永遠である」
と思い込んでいる人達が多いことには閉口する。
・都市
・政治
・文化
・国家
どれをとっても人間が作ってきて永遠に続いて来たものなど何もないのに。
こんなところで終末論を唱えようというのではない。
人間が作ったものは必ず壊れる。
残念ながらどんなに素晴らしいものでも必ず崩壊する。
かつて世界で一番民主的憲法を制定したドイツはそこからわずかな間に世界で一番の独裁者の君臨する国となった。
人が作ったものなどそんなものだ。
「形あるものは必ず云々」
と口癖のように言う悟った?方々もいる。
なぜか前者と後者は両極端に思える。

今あるものは永遠にあると思ってその上に眠る
今努力して作っても創っても無駄なので何もしない

全く違うようだが根底は同じだ。
つまり今を生きている人間として出来ることを何もしようとしていないということ。
これにつきる。
ワイマール憲法は結果としてそれがナチスを生み出したからといってそれ自体が否定されるものなのだろうか?
あまり政治的な話はやめよう。

素晴らしい音楽を奏でたからといってその奏者は死ぬから音楽を学ぶことは無駄なのだろうか?

何故生まれてきて何のために何をするなどと言い出すと個人的思想の話になってしまうのでこれは避けよう。
しかし
今あることに全て満足する
全てをあきらめて何もしない
どちらも虚しい生き方としか思えない。

横文字でしかニュアンスが生まれないのであえてつかってみる。
人はどんなことでもクリエーターであるべきなのではないのか?と。
人は自分がクリエーターである時が一番その人にとって喜びが与えられる時であり他人からみても輝いているときではないだろうか。
クリエーターだと芸術家的なニュアンスになるな(笑)
んー創作者とでもいうんだろうか。
別に難しく考えなくてもいい。
何でも自分の本気で没頭できるもので、そしてそれをみて他人が良い影響を受けるものを創造していく。
たとえ創造したものがいつか消え果てようともそれを創ること自体に人間が楽しみを失ったのであればその人は一体何者になっていくのだろうか?

古代知恵者の言葉に
「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を全く労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか」
という言葉がある。
これだけみれば何か虚しく風を追うようでもある。
しかしその後にこの著者はこうも言っている。
「人間にとってもっとも幸福なのは自分の業によって楽しみを得ることだと私は悟った。それが人間にとってふさわしい分である」
自分の手によって楽しいことを想像していくことがやはり人間の本分でありそれが他者も変えていく。
たとえそれが後で自分でない他者のために使われるものだとしても自分作品は消え去って誰かがそれを勝手に踏襲したとしても、それはなくなってはいても忘れ去られてはいない。

ありきたりな言い方で閉めるしかないのだが結局次の未来人へ何を引き継げるのか、自分も作品もなにもなくなってもその人が何か残すことができるとしたら、それは・・・あえて口にするまでもない。
そういうことである。


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週末ならぬ、終末は近いのかも 大阪府  Ecclesia さん

別に大予言ではないですw
先日読んだ、プロ写真集にこんなことが書いてあった。

最近は、子供のスナップ写真を取るのにも親の許可がいる。
親の許可はまぁ当然かと思って撮っていたら、今度は学校の教諭から学校の許可をとれという。
しかたなく、学校側へ申し出たら今度はPTAへ・・・・
もう、世の中から子供の笑顔の写真は消えるかもしれない。

そういえば、少し前に、新聞記事で子供が発作を起こしているのを介抱して、
病院まで運ぼうとした男性が、子供に悪戯していると誤認されて身柄を拘束されたと。
幸い?にもすぐに誤解ははれたようだ。

しかし、昔は
子供好き=いいおじちゃん
だったのが今は
子供好き=変質者
という時代らしい

宮崎事件以来の風潮だが、実は過去と比べて、そこまで子供の権利が侵害されている訳ではないし、事件が増えている訳でもない。
あまりにも、あの事件が猟期すぎてクローズアップされすぎたところに、子供の権利保護団体なるものが利権をもとめて、金のためにキャンペーンを打つ。

私の仕事の相棒は元公安警察官だが、いつも口癖のように言っている。
「子供が絡むと捜査活動は難航する、子供は本当に邪魔」
「子供が目の前でげろ吐いて苦しんでいても、自分は見てみないふりをして通り過ぎるよ。自分がやったと人は思うしね。悪いけど、こういう世の中に生まれてきたことを子供は恨むしかないんやしな」

やや極端な気もするが、こういう考えはどんどん浸透していっている。
私も制限行為能力者、ことに児童とは取引も貸し借りもしない。
その子のせいではないが、モンスターペアレントに何か言われて困るのはこっちだ。
言い方は悪いけども、野良猫は保護されても、苦しんでいる子供は保護されないという時代がそこまで来ている。
言い過ぎ?

子供のことを例にしたが、人が人に対してどんどん人情味をなくしているという言い方をすれば何か心が廃れていっているような、何か個々の人間が悪いという感じもするが、実際には必ずこういう背景には保護団体だの権利団体だの、結局最終的には自分達の利権が絡む団体が存在する。
のせられてしまっていることに誰も気づかない。

「声なき国民の声をきくような市政を」
と先日の選挙で訴える候補者がいた。
悪いことは言っていない。
でも本当はこういった方がインパクトはあるのでは?
「自分から発言もしない投票もしない、何かを起こそうとしない権利の上に眠っている人間など保護に値しない」
と。

我々が与えられた権利が当たり前だと思って寝ている間にも、どんどんと人間関係の終末が近づいていると感じるのである。


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加害者 ・ 被害者 大阪府  Ecclesia さん

見方なんてそれぞれだろうし、ダメージが大きい方が加害者だとするのが一般的なんだろう。
それでも加害者とされる側から見ると、ダメージが大きくても「それを理由に被害者ぶって」となるわけである。

よく
「一言あやまっていればこんなことにならなかったのに」
などと聞くが、これこそ笑うしかない。
一言謝ることが出来ていればそこまでもめることはない。
謝るという意識が最初からなければ成り立たない方便だ。
そして最後は裁判であったり、怨恨をのこしたままの偽りの和解だったり。

この世の中には欺瞞が満ちあふれている。
それが秩序なのかという考え方もある。

いっそ全ての法律もルールもなくして、人間のモラルだけに任せるような社会にしてみたらどうなるだろうか?
モラルハザードとかいうが、それが起こって何が悪いんだろう?
そもそも、そのようにして創られたものが人間ってやつなんだろう。

まぁ、これ自体が理解できないから、また人は同じループに入っていくんだろうな。

その中で私は何を叫びますか?
あなたは何を叫びますか?


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